4月になると、少しだけ昔を思い出す。
もう10年くらい前になる。
俺が看護師として働き始めたのも、たしかこんな時期だった。
学生の頃は、それなりにうまくやれていた。
テストも、実習も、そこまでひどくはなかった。
だから、職場でもなんとかなると思っていた。
まあ、期待を胸に、ってやつだ。
今思うと、その時点でだいぶ甘い。
就職して最初の1週間は、病棟に上がらず研修だった。
そこまでは問題なかった。
むしろ、わりと平和だった。
本当にきつかったのは、病棟に上がってからだ。
俺は一応、看護大学を出ている。
うちの病院では大学新卒をあまり取っていなかったらしく、現場では「大学出てるなら即戦力っぽいよね」みたいな空気があったらしい。
あとから聞いた話だけど、こっちからするとたまったものじゃない。
病棟に上がった初日は、物品の場所を教えてもらって、簡単に病棟の説明を受けた。
そこまでは師長が対応してくれた。
この師長が、拍子抜けするくらい優しくて面白い人だった。
ああ、この病棟ならやっていけるかもしれない。
その時は本気でそう思った。
でも、そこからがきつかった。
プリセプター制度は一応あった。
一応、だ。
実際には、出勤するたびに教える人が違った。
しかも、その病院で20年、30年働いているようなベテランばかりだった。
当然、人によって言うことが違う。
やり方も違う。
なのに、指導者同士で情報共有はほとんどされていない。
昨日はこう言われたのに、今日は違うことを言われる。
新人からすると、それだけでかなりしんどい。
でも、現場の人からしたらたぶん普通なんだろう。
普通って、だいたい慣れてる側だけに都合がいい。
2週間くらい経つと、空気が変わった。
「とりあえず実践で」
みたいな感じになった。
まあ、実践で覚えることが多いのはわかる。
理屈としては正しい。
でも、その理屈を新人の消耗まで込みで語ってくれる人はあまりいない。
吸引、点滴、採血、導尿、バルーン留置。
学校で習っただろう、だったらできるよね、わからなければ聞いて、という感じだった。
当時の俺は、それをありがたいとすら思っていた。
わからなければ聞いていいなんて、優しいじゃないか、と。
でも、現実はそんなに単純じゃなかった。
学校で習った物品と、現場で使っている物品は微妙に違う。
患者ごとの個別性もある。
手順だけ覚えていても足りないことが、現場ではいくらでもある。
しかも相手は練習用の人形じゃない。
本物の人間だ。
点滴や採血をすれば、当然ミスる。
そりゃそうだ。
血管が見えない。
細い。
脆い。
逃げる。
学校ではまず手順を覚えることが優先だった。
毎回同じような条件で、同じように刺せばよかった。
でも現場は違う。
見えなければ、探さないといけない。
探しても、ない時はない。
慣れない実践。
見つからない血管。
焦る気持ち。
後ろには先輩。
そりゃミスる。
そうすると患者さんは怒る。
当然だと思う。
痛いのは向こうだし、何回も刺されたい人なんていない。
で、余計に焦る。
その時、後ろにいた先輩の顔を見た。
怖かった。
本当に怒っていたのかは、今となってはわからない。
でも、その時の俺には、怒っているようにしか見えなかった。
その患者さんに対して、俺はすでに2回点滴を失敗していた。
3回目を刺す前には、頭が真っ白になっていた。
でも、どこかで思っていた。
できなければ、先輩が助けてくれる。
学校の実習みたいに、先生が見ていてくれる。
失敗しても、最後には支えてくれる。
たぶん、そういう甘えがあった。
でも、現場は学校じゃなかった。
その先輩は、まあまあきつい人だった。
無言で「どいて」みたいな空気になった。
そのあと先輩が患者さんに謝って、点滴を入れた。
病室を出て、まず俺が
「すみません、ありがとうございます」
と言った。
すると先輩は、いろいろ言った。
わからなかったら聞いてって言ったはずだよね、と。
できないのは仕方ないけど、準備物も雑だよね、と。
血管がわからないなら、患者さんに普段どこで刺しているか聞いたのか、と。
刺す前に他のスタッフから血管の情報を取ったのか、と。
今なら、言っていることはわかる。
というか、かなり正しい。でもそれは、現場というもを知った今だからだ。
その時の俺にはきつかった。
全部が、自分を否定しているように聞こえた。
人間関係もできていない。
まだ安心して聞ける相手もいない。
余裕もない。
そんな状態の新人にとって、正論ってだいたい刃物だ。
正直、現場をなめていたと思う。
他人を当てにしていた部分もあった。
学校みたいに、誰かが最後は拾ってくれると思っていた。
でも、現場はそんなに優しくなかった。
そんなこんなで、そのあとも病棟にうまく馴染めなかった。
ずっと居心地の悪い新人生活を続けていた。
今思えば、俺はけっこうプライドが高かったんだと思う。
もっと下手に出るとか、もっと人に頼るとか、もっと愛想よくするとか、やりようはあったのかもしれない。
もし、もう少しうまく人間関係を作れていたら。
もう少し素直に馴染めていたら。
違う新人生活になっていたのかもしれない。
そうしていたら、こんな「逃げナース」みたいなブログを書いていなかった可能性すらある。
でも、現実はそうならなかった。
俺は誰に頼ればいいのかもわからなかった。
表情は暗い。
話もしない。
わからないことも聞けない。
そもそも、自分が何をわかっていないのかもわからない。
ぐちゃぐちゃだった。
一生懸命勉強はした。
知識は増えた。
でも、現場で活かせなかった。
知っているのにできない。
できないから余計に萎縮する。
萎縮するから、またできない。
見事に負のスパイラルだった。
10年経った今でも、基本はあの頃のままな気がする。
人間関係は相変わらず苦手だし、同僚や患者さんにとって、俺はたぶん“感じのいい看護師”ではないんだと思う。
ただ、技術だけはさすがに身についた。
点滴も採血も、今はほとんど失敗しない。
糸みたいな血管しかない患者さんでも、経験でなんとなく「このへんにあるだろう」がわかるようになった。
他の人が難しいと言う患者の採血ができることもある。
でも、何度も言うけど、
人間関係を作る力は本当に上達していない。
だから新人さんには、技術や知識だけを上げることより、
同僚と無理なく話せること、
チームの中で少し安心して働けること、
そっちのほうがずっと大事だと伝えたい。
技術はあとからつく。
知識も、嫌でも増える。
でも、人間関係で心がすり減ると、それだけで仕事はかなりきつくなる。
そして、きつくなりすぎる前に、逃げてもいい。
今いる場所が合わないなら、そこにしがみつくことだけが正解じゃない。
馴染めない自分を責め続けて壊れるくらいなら、場所を変えるほうがたぶんまともだ。
俺は遠回りした。
かなり無駄に消耗した。
だからこそ思う。
新人の頃に必要なのは、
「頑張れば何とかなる」という根性論より、
「無理なら逃げていい」という選択肢だ。
それを知っているだけでも、
人は少しだけ楽になれる。
コメント